2013年12月03日

台中日記 131202

【冒険者たち】 ‘危ういバランスを保っていた三人の関係はやがて来る悲劇によって壊されていく’ 台中も急に寒くなってきました。1年のうち9ヶ月ほどはTシャツとパンツで寝ているが、寝巻きを着始めたのが2週間ほど前だったと思う。それが先週末から急に寒くなり、先週の土曜日にはヒーターを出してきて使った。一気に冬になった感じだ。恐らく、台中に住んでいる人で部屋に暖房器具を置いてあるという人は全体の1割か2割だろう。当然、社内の人でも暖房を所持している人はいない。私が、「本当に寒い時はどうしてるの?」と聞くと、「寒い時は服をたくさん着ればいいし、寝る時は布団をたくさんかければいい」と言う。もちろん、もっともではあるのだが…やはり、これが文化の違いというものなのだろう。 今年の4月にもアラン・ドロンの「若者のすべて」をここで取り上げたばかりだが(台中日記130414参照)、それが予想以上に面白かったので、再び彼のDVDを購入してきた。これは、ディスク・ユニオンで見つけて手に取ったのだと思う。アラン・ドロンの代表作といえば間違いなく、「太陽がいっぱい」だろう。これは1960年にフランスとイタリアの合作で作られたサスペンス映画で、「禁じられた遊び」や「居酒屋」などを撮ったフランスの名匠、ルネ・クレマンが監督をしている。紛れもなく名作といえる出来であり、アラン・ドロンの出世作でもある。  では、次の代表作はといえば、前回取り上げた「若者のすべて」か「山猫」になるのではないだろうか?「若者のすべて」は「太陽がいっぱい」の次作で7作目の出演、「山猫」は1963年に13作目に出演した映画で、共にイタリアの名匠ルキーノ・ヴィスコンティが監督をしている。やはり、名匠の映画は代表作になりやすい。  では、その次というと難しいが、恐らく「山猫」の前作12作目で、同じくフランスのスターだったジャン・ギャバンと共演した「地下室のメロディー」か、1967年に21作目として出演した「冒険者たち」になるのではないだろうか?  アラン・ドロンとしての代表作でもなく、5番手か6番手に相当する作品だから、当然この映画についての前知識は全然なかったし、特別この映画を見たかったわけでもない。なんとなくタイトルだけは聞いたことがあっただけなのだが、このDVDを購入した理由はやはり前回見た「若者のすべて」が想像以上に面白かったのでアラン・ドロンに対する期待値が高かったのと、安かったからだ。 マヌー(アラン・ドロン)とローランド(リノ・バンチュラ)は、性格はまったく違っていたが、実の兄弟のように仲が良かった。マヌーはパリにある飛行クラブの教師で、ハンサムでスマートな外見に似合わず、驚くほどの命知らずで大ぼら吹きだ。ローランドはパリ郊外の廃車置場の中にある奇妙な仕事場に住み、画期的なカー・エンジンの開発に専念していた。ある日マヌーは飛行クラブの生徒から、耳よりな話を聞きこんだ。それはある映画プロデューサーが撮影のため凱旋門を飛行機でくぐり抜けた者に二千五百万フランの賞金を出すというのだ。マヌーは科学的調査をして、十分に勝算のあることを知った。いよいよその当日となったが思わぬ事件が勃発、飛行はとりやめとなり、その上この事件がもとでマヌーは飛行士の免許を剥奪されてしまった。おまけにこの話が巧妙に仕組まれた冗談であることが分った。失業したマヌーは友人ローランドの仕事場へ移ったが、仕事は思うように進行しなかった。そんなある日、マヌーは飛行クラブの生徒から聞いた新たなもうけ話の調査に乗りだした。それによるとベルギーのコンゴ移住者が動乱から逃れる途中、莫大な財産を乗せて海に墜落し、財宝が海底に眠っているというのだ。調査の結果それは間違いなかった。 マヌーとローランド、それに以前ローランドの仕事場で彫刻を勉強したことのあるレティシア(ジョアンナ・シムカス)の三人はスクーナー船に乗りこんで、宝探しを始めた。途中墜落して死んだと思われていたパイロットが船を訪れた。ついに彼らは素晴らしい仕事をなしとげた。ところがこの財宝に目をつけていた男たちが闇に乗じて襲ってきた。その戦いの中でリティティアは死んだ。危機を脱出した二人は彼女の故郷アイクス島を訪れた。そこには彼女にそっくりの少年がいた。リティティアを愛し続けていたローランドは、その少年の世話をするため島に残った。一度パリに帰ったマヌーも淋しくて、再び島へ来たが例の一味に襲われて死んでしまった。ついにローランドは島を去る決心をした。そして少年はひとり島に残された。 という、わかるようなわからないような話である。要約すると、現実社会に失望した二人の男女と中年の三人が、一攫千金を目指して冒険に出る。そこで、海の底に眠る宝探しに成功しかけるが、邪魔が入り女性は殺される。その後、残された男性二人は女性の故郷の島を訪れるが、女性を愛していた中年はその故郷に残り、若者はパリに帰る。しかし再び島を訪れた若者は、宝を奪おうとする一味に殺され、一人残った中年も島を去るという話だ。やはり要約しても、わかるようなわからないような話だろう。 しかし、私は今回この映画をじっくりと見て思ったのは、‘わかるようでわからない’というのが、フランス映画の特徴なのではないかということだ。ハリウッド映画とは根本的にそこが違う。ハリウッド映画の大半は、予定調和的にストーリーが進み、大方の人が安心できるようなハッピーエンディングで物語は終わる。しかし、フランス映画では随所随所で、なぜそういう展開になるんだろう?という進み方をして、悲劇的なエンディングも少なくない。例えば、アラン・ドロンが主演を張る、「太陽がいっぱい」や「若者のすべて」やこの映画にしても、悲しい結末が待っている。 若い頃は、そういった物語の不可解な部分が気に入らなかった。だから、フランス映画やイタリア映画が大嫌いだった。例えば、レンタルビデオ屋でアルバイトをしていた時代に、フランス映画の代表とされる「男と女」やイタリア映画の代表とされる「道」を見たが、さっぱり理解できなかった。実にくだらない映画だなぁ、と思ったものだ。当時はハリウッド映画に夢中で、マイケル・J・フォックスやエディ・マーフィーやトム・クルーズの映画ばかり見ていたから、難解なヨーロッパの映画よりも、単純で見終わってスカッとするハリウッド映画こそが映画の王道だと信じていた。 しかし、歳を重ねることにより、分かり易い=面白いということではないということに気付く。むしろ、当時よく意味がわからなかった映画も、今見たら理解できるかもしれない。逆に、この映画も恐らく20代の頃に見ていたら、意味が分かりにくかっただろう。 例えば、主役の一人であるリティアが死ぬシーンなど、もしハリウッド映画ならかなりドラマティックに演出したであろうが、この映画では‘あれ、死んじゃったの?’というくらいあっけなく描かれていて、次のシーンでは他の友人二人がもう死んだ彼女の故郷に向かっている。簡単に言うと、過剰演出が一切ないのだ。これがフランス映画とハリウッド映画の演出の違いだが、ハリウッドの演出に慣れていると最初は戸惑うものだ。 では、この映画が優れているのか?と問われれば、そうとも言えない。代表作かつ出世作である「太陽がいっぱい」に比べればプロットで確実に劣るし、前回取り上げた「若者のすべて」に比べれば人生の哲学的なメッセージは劣るだろう。しかし、私は決して嫌いではない。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や「ビバリーヒルズ・コップ」と比較したら地味なアクション映画だが、これがフランス映画の呼吸なのだろう。慣れてしまえば、この淡々とした展開も悪くない。アラン・ドロンが撃たれた終わり方なども、非常に淡々としているのだが、それがなかなか良いと思えるようになるには、やはりある程度の年齢を重ねる必要があるのだろう…。 「若者のすべて」では、アラン・ドロンのカッコ良さが際立っていたが、この映画ではレティシア役の徐アンナ・シムカスがとてもチャーミングでした。


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Posted by arcvwvulcx at 01:00│Comments(0)
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