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2011年11月28日

トウカエデの紅葉

今月UPしました、トウカエデが綺麗に紅葉していました、今年は気温の関係で少し色変わりが良くなかったです。 *トウカエデの実*


  


Posted by arcvwvulcx at 22:07Comments(0)

2011年11月28日

やっぱスパゲッチぃ!

父ちゃんが晩ご飯をぉ 作るときに母ちゃんがぁ リクエストするのってさぁ・・ オムライチュ~! スパゲッチ~! かなりワンパターンだねぇ この間のお休みにもぉ やっぱスパゲッチ~! 父ちゃんのイタリアンスパゲッチってぇ 美味しいけどぉ 何か他のものもぉ 作ってもらいたいねぇ ここんとこ父ちゃんがぁ 料理してないからねぇ ポテトグラタンとかぁ 洋食屋さんメニューを食べたいぃ? たまには料理してねぇ ねっ! 父ちゃん! 今週は今日からぁ 金曜日までの5勤なんだよねぇ それから土・日がお休みぃ 土曜は母ちゃんがぁ 半日のお仕事だからぁ 土曜のお昼は父ちゃんがぁ 作ってくれるはずぅ 今から洋食屋さんメニューをぉ リクエストしとかなきゃ・・ 何がいいかなぁ? 何か食べたいものがあるぅ?


  


Posted by arcvwvulcx at 06:36Comments(0)

2011年11月27日

普仏戦争 XIV 責任と書解釈(6)

第5章  軍と国民  戦争は国民と軍の関係を修正または屈折させる。過去において軍隊が1870年以後ほど尊敬されたことは一度もなかった。敗戦が批判と疑念を撒き散らしたのではない。反軍国主義と平和主義は一時的に面目を失った。そうした反転は共和派において最も劇的であった。国防政府の失敗に懲りて、国防に関する彼らの見解のユートピア性が暴かれた。共和派は新兵徴募に反対することの危険性を悟り、以後、軍事的教練の擁護の立場にまわった。「常備軍の廃止」または将校の選出を唱える者はいなくなった。  役に立たない国民衛兵制度は廃止される(1871年8月24日法)。国民衛兵は二度と徴募されないだろう。もはや非正規の軍役はもはや要望されない。国民総動員の神話や数の優越性は敗北の諸事実によって完全に否定された。かつて「軍カースト」を批判していたアンリ・ブリソン、ジャン・マセのような進歩派の共和主義者さえも国防努力を支持する側にまわった。軍隊の再建はティエールの主要な関心のひとつだった。それは法律条文で明文化されるまえに事実的に実現されていた。フランス軍はコミューンに敵対して編成され、次いでドイツ軍の撤退に応じて国土の回復を促した。立法措置(兵役、国土組織、カードル、要塞化)のすべては1872~75年の間に達成された。再建は非常に急速であった。軍事問題に関してもっとも能力があり、先見の明ありと自認するアドルフ・ティエールはむしろ古典的な見方をもっていた。彼は将軍たちとの技術的問題を心配しなかったし、議会との論争もそうであった。  1872年7月27日の軍事法が世論の批判を巻き起こしたとしても、それは否認ではない。同法は以下のような根本原則に従っていた。すなわち、徴兵は国民の義務のひとつである。すべての国民は20才から40才まで軍役に従わなければならない、と。職業軍の優越を信じて疑わないティエールは5年の現役、以後4年の予備役、11年の郷土兵役を採用した。このような期間は割当定員の召集を排除した。4分の1ずつ抽選で決められた割当定員は僅か6か月であった。徴兵免除は数多かった(聖職者、教授、家族扶養者など)。1年兵役のプロイセン志願兵を真似た規程もあった。つまり、バカロレア資格をもつ若者は1500フランを支払うことによって僅か1年に短縮することができた。もし彼らの訓練が十分と判断されたときは、彼らは予備役士官から外された。1879~80年、若き日のレイモン・ポンカレーは法学士の資格をもっていたが、ナンシーのサント=カトリーヌ兵舎の狙撃部隊で兵役をつとめ、予備役将校となった。勤勉な彼は規程に則り兵役期間をつとめあげるだろう。ブルジョア階級に軍事教練を免除した不公正な交替制度は全廃された。 新フランス軍は平時で理論上は46万4千人にのぼる。この数字は1870年7月と比較して14万の増である。戦時にはそれは70万に増加した。これはドイツ軍と均衡をとることをめざしている。戦争を仮定して1875年3月13日の法律つまり指揮官法は士官と下士官団の形成を備えた。この指揮官団は、宣戦布告がなされるやいなや自動的に歩兵連隊となる第4大隊を指揮することになった。それでもまだ兵役免除があった。つまり、再編された軍隊はなおまだ市民軍ではなかった。共和派はこの不平等条項を批判する。彼らはもっと短く、かつもっと広範な現役徴兵制を好んだ。1877年に兵役期間は4年に短縮された。1889年、フレシネはすべての免除規程を廃止し、3年制の国民皆兵の兵役制を採用した。  次いで、指揮官が注視の的となった。彼らの質と士気の点でプロイセンと同等か、またはそれ以上であったかもしれない。戦後数年でその実数は2万を超えた。ついで1880年の末にはその数値は2万7千人を超えた。指揮官の大多数は歩兵団と騎兵団についてはサン=シールから、高度の武器を扱う兵団についてはエコール=ポリテクニクから来た。これは高位階に到達するための王道であった。バゼーヌが享受したような直接の昇進方法が完全消滅したわけではないが、それはしだいに、1874年に創設された特別学校による下士官の形成にとって代わるようになった。下士官学校すなわち騎兵のソミュール、工兵と砲兵のヴェルサイユ、歩兵のサン=メキサン卒の候補者は軍隊の指揮官となった。彼らは1890年ころ全体の3分の1以上を占めるようになる。 社会的募集の形成の見地から見ると、士官は均質な階層出身からほど遠い状態にあった。大多数は中流階級の出身であり、戦功と教育によって昇進した。農民は子弟のなかで最良の部分を送りつづけた。リヴサルトの樽職人の息子であり、ポリテクニシアンのジョッフルはパリ籠城期に1大隊を率いていた。他の多くの例を挙げることができる。少数派となった貴族出身者は騎兵と海兵においてはかなり残った。彼らはおそらくは簡単に昇進できたと思われる。なぜというに、パリにおいて自らの地位を支えるべき手段をもたねばならなかったからである。  敗北に関する省察は作戦計画の百家争鳴を引き起こした。砲兵、工兵、主計、衛生兵は再組織され、より効率的なものとなった。動員戦略は真面目に考究されたが、その証拠は兵の集中計画に認められる。しかし、慣行、規則無視(表面上は尊重しつつも)、駐屯生活への埋没などは永続的な危険であり、その背徳的な結果は動員時にあらわれるはずである。ポリテクニク出身の将校団を除き、知識層はかなり低水準のままに残った。たしかに、サン=シール出身者は大学入学資格をもっていたし、それは当時の社会においてはかなり例外的な状況だったが、学校で修めた教科は好奇心と省察を発展させなかった。駐屯生活への安住はそうしたものへの渇望を掻き立てた。この傾向とたたかうために、1876年に陸軍大学が設立された。同校は中尉と大尉を集め、職業教育ならびに一般教育を提供。陸軍大学は1870年のときのような無能な高級指揮官の編成を避けるためのものである。その卒業証明はしだいに高級軍人を占めるようになり、責任と決意の機能に接近した。創設の数年間、熱狂は大きかった。次いでそれは醒め批判があらわれるようになった。それは真っ先に軍人階級から出た。陸軍大学は「軍官僚」を生み出したがゆえに非難された。また生徒をナポレオン一世に、スダンに固定したがゆえに、あらゆる技術と科学の進歩への省察に導くのではなく、アウステルリッツとサン=プリヴァを再現するのに費やしたため非難された。戦史研究は戦略も戦術を刷新するのではなく、一つの刺激にすぎず、もっとも勤勉でもっとも有能な要素を選び出し、政治的賞賛と影響力の役割に矮小化された。  戦争に続く数年間、他のすべての考察にも増して中心となったのは国土の防衛、新たな侵入の撃退という主題であった。セレ・ドゥ・リヴィエールの要塞化された体系の構築、動員計画などがこうしたものである。たしかに、ほとんどの者の脳裏を占めたのは、失われた諸州の奪還である。多くの士官団は併合されたアルザスとロレーヌの出身であった。メッスとストラスブールの思い出は多くの者の脳裏に残っていた。1914年戦役の前夜に陸軍大学校長のフェリー将軍の例がジャン=シャルル・ジョフレの『フランス将校の歴史』に引用されているが、これは最も象徴的である。 「私が他の職業ではなく軍隊を選んだのは、私の家族と私がナンシーで生活し、われわれが侵入の厳しい苦難を味わったからであり、いま一度戦争が起きたとき、対ドイツ戦争で重要な役割を演じることを心に決めたからである。」 士官においてはドイツへの敵愾心はモルトケ、ビスマルク、ヴィルヘルム一世に奥深く定められた。その大多数は復讐の無分別な冒険行動に駆り立てられることはなかった。つまり、しかるべき時が来たときに、備えなければならないという決意がそれだ。“スダン”、ナポレオン三世の無能ぶりが締め言葉となった。彼らは政治体制や王朝にもはや有機的に結びついていなかった。軍隊はもはや国家元首の所有物ではなくなり、国民に奉仕するものとなった。王党派の保守派と共和派の間の分裂は軍隊でも国民の間でも見られた。それは指名と昇進に関して影響を与えた。「道徳秩序」の時代には国家首長のマク= マオン元帥は兵士であり、保守派の将軍連は責任あるポストを占めた。共和派は、衝動的な連中がクーデタを起しはしないかと恐れた。ガンベッタは心配し、シャンジー、フェデルブ、トゥマス、ボレルのような共和派の将軍連はいかなる誘惑にも乗るまいと警戒した。1879年1月、マク=マオンを共和派に対置したのは軍隊における権力であった。その古い仲間を犠牲にする代わりに、マク=マオンは引退し、共和国大統領を自認する道を選んだ。勝利をおさめた共和派は賢明にも粛正を引退組に限定した。宗教団体への対抗措置につづき、カトリック派に起きた辞職の動きは軍隊への義務を容易化した。なお現役に止まった王党派の将校団はたいていの場合、責任ある地位から外れた。緊張と紛争は絶え間なかったし、軍隊を麻痺させることもありえた。この危険はしばしば起きたが、それは回避されえた。なぜならば、すべての士官団は同じ理想を共有していたからだ。つまり、軍隊の最高の使命は国土をドイツの危険から防護し、防衛することであるという理想を。重大な政治的不一致のゆえに、あるいは良心の理由により将校は軍隊を辞職することもありえた。とはいえ、何であれ冒険行動は回避された。フランス軍はもはやクーデタの軍隊ではなくなった。軍は共和派により国家の征服がなされたときでもそのことを示したし、1877年5月16日にもそれを示した。軍は1887~89年にも同じことを示した。このときジョルジュ・ブーランジェ将軍が復讐の観念でもって体制に対して謀反を起そうとしたのであったが。  ほとんどのフランス人は強力で数が多く、尊敬される軍隊を熱望した。軍隊は1870年の敗北から偉大となった。勇気あるフランスの兵士は自分の生命までも投げ出すことを承認した。エピナルのペルラン社によって出版された戦争絵の伝説は飽きもせずこの主題を取り扱う。大革命と第一帝政の兵士の相続人あることを、それらの反対派すらも武勲の前にひれ伏す。政治家や将校、司教や僧侶たちの演説はこの汲み尽くせない主題を扱った。兵士の社会的イメージは非常に肯定的なものになった。作戦で生まれた破片は収集の対象となった。トゥール、ヴェルダン、エピナル、ベルフォール、ラングルの要塞化のための土地収用は喜んで迎え入れられた。兵士は自慢の対象となり、人々は彼らを取り巻き、行進やパレード、演習の見物が好まれようになった。共和国の7月14日は民間の祭典というよりは軍事的な祭典となった。兵役に就くということは名誉であり義務となった。いかなる者も忌避しようとはしなくなる。サラン・サンティネル・ドゥ・ジュフ射撃協会の競技会がおこなわれるときは、郡のある議員は次のような月並の言葉を残した。すなわち、「わが国における愛国心は特別の水準に達した。各人が兵士になろうと欲したに止まらず、すべての者が兵士の義務を理解するにいたる」、と。これまでになく、人々は階級に憧れるようになった。民衆の世界では、下級将校ないし下士官は尊敬される人物となった。栄誉を挙げての引退後は、人々は協会を活気づけるために彼らの方を振り向いた。ドイツ軍役を免れるために併合地を脱走し、フランス軍に参加したすべての若者については特別の言及がなされねばならないだろう。  ドイツの危険の自覚は余りに強かったので、反軍国主義はすべての世代に亘って面目を失った。だが、その思潮は1890年代に、知識人、無政府主義者、社会主義者の間に様々なかたちをとって再発した。とはいえ、それは、民衆世界にほとんど影響を与えることのない、周辺的な現象にとどまった。その流れを決定的に曲げ、軍隊の行動に関して一大変化を引き摺ったのはドレフュス事件であった。以後は軍隊の行為は論議の対象となった。1871年に始まる賞揚と尊敬の時代は幕を閉じたのであった。


  


Posted by arcvwvulcx at 06:46Comments(0)